東京地方裁判所 昭和36年(ワ)142号 判決 1972年4月13日
原告(選定当事者) 本川政義 ほか二名
被告 国
訴訟代理人 叶和夫 ほか三名
主文
原告らの請求をいずれも棄却する。
訴訟費用は原告らの負担とする。
事実
第一申立
一 原告ら
(一) 目録(一)記載の土地につき目録(二)記載の者が同目録記載の割合による共有持分権を有することを確認する。
(二) 被告は目録(一)記載の土地を目録(二)記載の者に引渡せ。
(三) 訴訟費用は被告の負担とする。
との判決および第二項につき仮執行の宣言を求める。
二 被告
主文と同趣旨の判決を求める。
第二主張
一 原告ら(請求の原因)
(一) 別紙目録(一)記載の土地(以下本件土地という)は、江戸時代においては、日向国高鍋藩の領内に属し、本件土地の近辺にある揚原部落(現在宮崎県串間市大字大平字揚原)、同高則部落(現在同市同大宇高則)、同胡桃ケ野部落(現在同市同大字字胡桃ケ野)の住民らの共同の牧場として利用されていた。右三部落の住民らは、本件土地のほかに、本件土地のほぼ東南側に位置する本件土地と略同面積の山林(後記行政裁判所の判決に基づく協議により右高則、胡桃ケ野両部の住民の共存件とされた土地)をも牧場として利用し、これらの放牧地(本件土地を含む)を一括して高則牧と称していた(以下この土地を高則牧跡地という)。右三部落の住民らは高則牧跡地につき自由に支配進退していたのであり、同地は右住民らの共有に属していたものである。
(二) 高則牧跡地が右三部落の住民らの共有であつたことは次に列記する各事実によつてあきらかである。
1 高鍋藩においては多数の牧(牧場)が存在していたが、これを大別すれば、藩が直接経営にあたつていた牧と民間の経営による牧とに分けることができ、前者は御牧、後者は里牧または百姓私牧と称されていた。高則牧は後者に該当するものであるが、里牧または百姓私牧と称することは恰も百姓山、里山というに等しく、その名称において民有であることを示している。
2 右部落民は、代代高鍋藩に対し里牧運上と称する牧場地盤に対する地租を負担していた。里牧運上が牧場地盤に対する地租であつたことは次の事実から明らかである。即ち、まず里牧運上という名称はそれ自体牧場に対する課税であることを示している。次に、高鍋藩においては里牧に関し里牧運上のほかに里馬毛附銀と称する課税があつた。里馬毛附銀とは里牧で飼育される牛馬を一頭毎に課税の対象とする牧業税であつた。これに対し、里牧運上は、牧場毎に一定額が課税されるものであつて、その課税額は牧場の大小に応じて定められた。そして、牛馬の持主の一頭あたりの負担は総頭数が一定数より大きいときは軽くそれ以下の場合は重く定められ、一個の里牧につき一定額の税額が確保されるように仕組まれていた。しかも、里牧運上は里馬毛附銀に比較して極めて税率が低かつた。また、牧場から産出する牛馬を売る場合には別に牛馬売買運上という税が課されていた。このような点からみれば、里牧運上は牧場そのものに対する課税すなわち地租であつたことがあきらかである。そして明治三二年四月一八日法律第九九号国有土地森林原野下戻法(以下単に下戻法という)。は、地租改正処分により官有に編入された土地につき「正租」を納めた証拠のあるものは右土地につき下戻の申請をなしうる旨定めているが、右の「正租」とは地租を意味すると解すべきである。従つて、里牧運上が地租であることは、とりもなおさず高則牧跡地が民有地であったことを示すものである。
3 右部落民は、高則牧について牧場本来の用方に従い自由に放牧、採草を行つていたが、これにとどまらず高則牧の地盤自体についても自由に支配進退していたものである。即ち、部落民は、牧場経営のため壕、溝、土塁、木棚等を築き、疵護林の植林をしていたばかりでなく、自由に牧場内地の開墾および炭料の樹木の採取をしていた。さらに、幕末のころには、かつては禁じられていた牧場内の植林も自由に行なわれるようになった。また、牧場の経営は部落民の自治に委ねられており、自治的規制に反する者に対しては「ちよがめし」と称する村八分の制裁が加えられた。このように、牧場地の使用収益について、部落民は、部落共同体以外の何人からも制肘を受けていなかつたのであるが、この点は高鍋藩経営にかかる御牧(官牧)について牧別当、牧廻役が配されて管理万端に当つていたことと著しくその趣を異にするところであった。
4 明治七年に右御牧が収支相償わずという理由で廃止されたとき、当時の宮崎県参事福山健偉が内務卿に対し官牧跡地の処分方法につき指示を仰ぎ内務卿から指示を受けたことがあつたが、その際にも里牧跡地についてはなんら指示を仰いだり受けたりしたことはなかつた。
(三) 右(二)のとおり本件土地を含む高則牧跡地は部落民の共有にかかるものであつたにもかかわらず、明治一二年ごろ地租改正に伴う山林の官民有区分がなされた際、右土地は官有地に編入されてしまつた(以下この官有地編入の処分を本件処分という)。しかしながら、本件処分には部落民の共有権を無視してなされた点において重大な瑕疵があつたというべく、また右土地が部落民の共有にかかるものであることは周知のことであつたから右瑕疵は明白であつたといわなければならない。従つて右処分は無効である。
(四) ところで、地租改正に伴う官民有区分によつて官有地とされた土地のうちには、元来民有地であつて、民有地に編入されるべきであつたのに誤つて官有地に編入されたものが少くなかつた。このため、一たん官有地とされた土地につき民有への引戻を求めて抗争する例が跡を断たなかつた。そして、行政庁の違法な処分を争う途は、既に明治二三年に制定された行政裁判法によつて開かれていたが、さらに明治三二年に至り官有地に編入された土地の下戻の手続につき前述の下戻法が制定されるに至つたのである。なお、宮崎県下においては官民有区分に対する民衆の不満がことに強かつたので、これを緩和するため、下戻法が制定されたわずか一年後の明治三三年四月一二日に宮崎県山林特別処分例が制定され、官有地の下戻につき特別の措置がとられたのである。
前記高則、胡桃ケ野両部落の住民は、右下戻法に則り高則牧跡地の下戻を求める訴を、もと高鍋領内の地の多数の住民の各下戻の訴とともに提起したところ、行政裁判所は、明治四三年五月六日、右事件(行政裁判所明治三六年第三四九ないし第三六三号、第四〇四号、第四二〇号、同三七年第四七三号、第五一五号各事件)につき判決を宣告したが、右判決の主文中には「農商務大臣は高則牧跡地の二分の一を前記高則、胡桃ケ野両部落民に下戻すべし」との部分がある。その理由は、右土地は百姓私牧に属していたもので部落民の共有に属するものであるが、右行政訴訟の原告となつた者は右土地を使用していた者の約半数であるからその二分の一を前掲下戻法により下戻すというにある。そして高則牧跡地につき右行政訴訟の原告とならなかった残余の約半数の部落民こそ前記の揚原部落民であつたのである。
(五) その後、高則、胡桃ケ野両部落民と被告とは協議のうえ、右判決に定められた持分に従って高則牧跡地を分割し、本件土地を被告の所有とし、高則牧跡地のうち本件土地を除く部分を右両部落民の共有と定めた。そのころ、前記揚原部落民は、高則牧跡地のうち本件土地を除く部分を高則、胡桃ケ野両部落民の共有とすることに特に異議をさしはさまなかつたので、これに黙示の同意を与えたものと解される。そして、前述のように、本件処分は無効であり、したがつて本件処分によつて高則牧跡地が被告の所有に帰したということはできないのであるから、右の協議と分割によつても本件土地が被告の所有に帰するいわれはない。そうすると、右の協議と分割およびこれに対する黙示の同意により、揚原部落の住民のみが本件土地を共有することとなつたというべきである。
(六) 目録(三)一ないし一九の頭初に記載された者のうち森善吉、隈田原勇太、森久太郎、隈田原今朝市、本川虎太、平川善太郎、菊永佐吉、河野太人の八名は揚原部落の部落民であり、古くからの同部落の住民の家督承継人である。その余の一〇名の者は、同じく揚原部落民で森善吉らの分家筋にあたる者であるが、森善吉らと合意のうえ本件土地につき平等の持分権を与えられた者である。その結果目録(三)一ないし一九の頭初に記載された者は全員各一九分の一の割合で本件土地を共有することとなつた。そして原告らおよびその選定者である目録(二)記載の者は目録(三)記載の相続等の原因によつて前記森善吉ら一九人の持分を承継取得し、目録(二)記載の割合で本件土地を共有している。
(七) 被告は、本件土地は本件処分により被告の所有に帰したものと主張して本件土地を占有し、目録(二)記載の者の所有権を争つている。よつて原告らは目録(二)記載の者の共有持分権に基づき被告に対し本件土地の引渡および共有持分権の確認を求める。
二 被告(答弁および主張)
(一) 請求原因(一)の事実のうち江戸時代において揚原、高則、胡桃ケ野三部落の住民が高則牧跡地に放馬していたことは認めるが、その余の事実は否認する。
同(二)の事実のうち高鍋藩内において御牧と里牧の二種の牧が存在し、前者が藩の直営であり、後者が民営であつたこと、高則牧が里牧であつたこと、里牧につき高鍋藩に対して里牧運上という租税が上納されていたことおよび4記載の事実は認めるが、その余の事実は否認する。
同(三)の事実のうち高則牧跡地を官有地に編入する処分があつたことは認めるがその余の事実は否認する。
同(四)の事実のうち原告ら主張のとおりの各法令が制定されたことおよびその主張のとおりの訴提起とこれに対する判決があつたことは認めるが、その余の事実は知らない。
同(五)の事実のうち被告が高則、胡桃ケ野両部落と原告ら主張どおりの土地の分割をしたことは認めるがその余の事実は知らない。
同(六)の事実は知らない。
同の(七)事実のうち被告が本件土地を占有していること、目録(二)記載の者の共有権を争つていることは認める。
(二) 部落民が江戸時代に里牧の地盤を所有していた事実は全くなく、部落民には所有の意識さえなかつた。
1 里牧とは高鍋藩の所有する伐採跡地または未だ植林されていない荒蕪地に毎年定まつた時期に放馬を許された土地をいうものであつた。
2 里牧運上は土地の所有に伴う租税ではなく、単なる利用用益税であつた。すなわち、下戻法は下戻を求める土地について「高受」をなし「正租」を納めたことを証明すると下戻を受けられる旨規定するが、右正租とは主たる地租の意味であつて江戸時代に本途物成または本途年貢と称された税を指す。本途物成とは村高を課税の物体とする租税であり、村高とは一村内に於ける田畑および屋敷地の総収益を石高に決算した数である。そこで、里牧運上が右村高に加入されていたとすれば、本途物成ということになるが、そのような事実は全くなく、かえつて宮崎県古公文書「御指令綴三」(甲第二〇号証)によると里牧運上は雑税とされていたのである。
3 高鍋藩においては、元禄時代以降財政が窮乏の一途をたどり、文化文政時代には極端な財政窮乏におちいつていた。このため、同藩においては、藩内の広大な山林からの収益が重視された。すなわち、同藩は、直営の御手山経営により自然林を伐採し、木材、木炭、薪等に製品して出荷し、多大の収益をあげていた。したがつて、立木、木炭等は同藩にとつては重要な財源であり、立木の伐採、製炭等は同藩の厳しく禁止統制するところであつた。そして、農民の生活ないし農業生産に必要な薪、枯枝、飼料、草、萱等の採取については、農民の農業生産の持続とそれによる年貢の確保のため、山手銀と称する雑税を徴収して恩恵的に許容していたにすぎなかつた。また高鍋藩は、藩内の山林の相当部分を「御立山」と称し、藩の直轄でその管理育成にあたつたが、そのほかの山野についても、藩有林の保護育成を民間に委託し、その代償として枝葉の払下および下草の採取を許した見覚悟山あるいは、藩有の未植林地に植栽をした者に成木の分収を許した植立山(部一山)を設ける等の方法により山林の育成につとめたのである。したがつて、農民が山野から枯枝、下草等を採取したり直接植林をし、その成木を処分した事実があつたからといつて直ちに農民がその地盤を所有していたということはできないのである。
以上のことは、里牧にもあてはまるのであつて、里牧の事態は地理的条件の劣悪な荒蕪地に一定の時期に放馬を許されていたものにすぎず、高鍋藩は、農民の農業生産の持続とそれによる年貢の確保を期待して恩恵的に里牧地の利用用益を農民に許していたものである。このような条件の悪い里牧地の周辺に土塁、堤防、堀を構築し、これを維持管理することはぼう大な労働力を要し、当時の農民には到底できないことであつた。もつとも、部落民が土塁等を構築した事実もないことはないが、これは放馬が共同萱場内に入らないように構築したものであつて、里牧の周囲に土塁等を作つたものではない。
4 明治七年に高鍋藩の経営する官牧が廃止された際宮崎県参事が内務卿の指示を仰がなかつたのは里牧が単なる荒蕪地にすぎなかつたので払下げの希望者もなく、従つて当時行われていた還禄士族に対する授産事業としての官有地の払下げに関する内務卿の指示を仰ぐ必要がなかったからである。従つて右事実をもつて里牧地が民有であつたことの根拠とすることはできない。
5 以上述べたとおり里牧跡地は江戸時代において高鍋藩有に属しその支配進退を受けていたものであり、官民有区分処分に際しても官有とされたのである。従つて前記行政訴訟に於ても、被告たる農商務大臣は官牧里牧の区別は単に牧業経営上の区別であつて地盤所有の区別ではないと主張したのであるが、前記行政裁判所の判決はこれを排斥し、里牧跡地を民有と判断した。しかし、この判断は、必ずしも里牧の実態を正確に把握せずになされたと考えられるのである
(三) 仮りに原告らの祖先が江戸時代に於て本件土地を自由に支配進退しそれ故本件処分が無効であつたとしても、それは本件処分が効力を生じないというにとどまり、江戸時代における支配進退を近代法上の共有に転化せしめるものでないから、本件土地が本件処分により官有地に編入され原告らの祖先が下戻法に基づき下戻を受けていない以上原告らの祖先は近代法上の所有地を取得しなかつたものである。蓋し官民有区分処分とは既に存在する所有権の帰属も決定するものではなく近代法上の所有権を創設するものだからである。これを詳述すると左のとおりである。
我国に於ては、明治維新後封建領主の土地領有制を廃止し近代的私的土地所有権を認めることになつたが、江戸時代には今日の土地所有権(近代的土地所有権)と同じ権利関係は存在せず、土地に対する複雑多様な支配(利用)関係が存在していたにすぎなかつた。そこで、この支配関係を一地一主に整理する必要があり、いかなる支配関係を所有権と認めるかは極めて困難な政策上の問題であつた。しかるところ江戸時代にも田畑市街地等については今日の所有権概念に相当し相当程度抽象化された支配権が存在しており、「所持」という言葉で表現されていた。この所持権は検地帳または水帳に記載されることにより確定されていたから、民有地か否かの認定は比較的容易であつた。しかるに山林原野等については、農民のこれに対する支配の実体および意識が稀薄であつたのに対し、領主側では自己の支配権を強く意識し農民の収益を恩恵的と考える傾向が強かつた。そこで山林原野等の官民有区分の具体的基準として、明治七年一一月七日太政官達第一四三号、明治八年六月二二日地租改正事務局達乙第三号、同年七月八日地租改正事務局認定、同年一二月二四日地租改正事務局達乙第一一号、同年一二月二七日地租改正事務局達乙第一四号等が制定され、これらを基準として民有地と認定され地券を交付されることにより初めて当該土地は民有地となつたのであり、これ以外の土地はすべて官有地となつたのである。このように地租改正、官民有区分の実施こそまさに近代的所有権を形成し確立するものであつた。
このことは官民有区分の誤謬を訂正するための法律である前掲下戻法の規定によつても明らかである。すなわち、同法は地租改正処分により官有に編入せられた土地山林原野等について一定の事由がある場合には下戻の申請をなしうる旨定めているが、右事由は講学上の取消事由ではなく無効事由に該当するものに限られているのである。そして、同法は、下戻申請をなしうるような事由のある処分、即ち講学上の無効事由に該当する瑕疵のある処分によつても官有編入の効果が生じたことを前提とし、下戻を受けた者は下戻により創設的に所有権を取得するものと定めているのである。
のみならず、下戻法によると地租改正処分がなされた地方に於ては官民有区分の未定地脱落地でさえも下戻法の規定が適用される(同法第一条第三項)のであり、このことは右のような土地ですら下戻処分または下戻判決がない限り官有地であることを前提としているものである
以上の次第であるから、本件処分が仮りに無効であるとしても本件土地が被告の所有地であることに変りはない。
四 右(三)のとおり下戻法に基づく下戻処分または下戻判決は、現行の行政争訟における取消処分または取消判決のように瑕疵ある処分を取り消すものではなく、講学上の無効事由に該当する瑕疵が官民有区分にある場合に新たに当該土地の所有権を官有から民有に移転せしめる性質のものであつた。そして、下戻法の制定により山林原野等につきなされた官民有区分処分に対する不服申立は下戻法に基くもののみが許されることとなり、かつ同法第一条は下戻申請は明治三三年六月三〇日までになされねばならない旨定めていたところ、原告らの祖先は右の日までに高則牧跡地につき下戻申請をしていないから、右期日の経過とともに本件処分の効力を争うことは行政争訟としてはもちろん民事訴訟の前提問題としても許されなくなつたものである。下戻法に基づく下戻申請が官民有区分に対する唯一の不服申立方法であつたことは下戻法制定に至る次のような経緯に徴しあきらかである。すなわち明治二三年一〇月一〇日法律第一〇六号行政庁ノ違法処分ヲ行政裁判所二出訴シ得ヘキ事件によると「土地ノ官民区分ノ査定二関スル件」が行政裁判所に出訴し得べき事項の一つに挙げられていたが、実際には地租改正に伴う官民有区分は明治一〇年前後(本件処分について言えば明治一二年)に終了していたので、明治二三年六月三〇日法律第四八号行政裁判法第二二条の規定による六か月の出訴期間が経過したため右処分自体の違法を争つて行政裁判所に出訴することはできなかつた。しかし官有地編入処分に不服がある者は明治一五年太政官布告第五八号請願規則に基づき府県知事に対し官有に編入された土地の下戻を申請することができ、知事は明治二三年四月一五日農商務省訓令第二三号に基づき農商務省に稟議して処理すべきものとされていた。そして右申請が拒絶された場合はその拒絶処分の直法を争い行政裁判所に出訴し得たのである。その後右申請の手続は明治三〇年八月六日農商務省訓令により整備されたが出願期間を定める法規が存在しなかつたので明治初年に行われた官民有区分がいつ確定するかが定まらず国有財産の整理および営林事業の計画に重大な障害をもたらしていた。そこで下戻法は前掲省令等による下戻出願手続を整理統合し出願期限を前記のとおり定めたものなのである。従つて右出願期限を徒過した原告らはもはや本件処分の効力を争うことができない。
(五) 仮りに原告らの祖先が江戸時代に於て本件土地につき所有権を有していたとしても、官民有区分処分は土地が官民有のいずれに属するかを創設的に決定する効果を有するものであり、本件土地は本件処分により官有とされたのであるから原告らの祖先は本件処分により所有権を失つたものである。
そして本件処分に重大明白な瑕疵があつたとしても、右処分のなされた当時と現在とでは既に一世紀に近い年月が経過し政治、経済、社会の制度はもとより法秩序の構造内容も大いに変化しており、もはや歴史的事実と化した右処分を無効とすることは右処分を前提とする法秩序を害し法的安定を著しくそこなうものである。のみならず被告は右処分以来本件土地に国有林を経営し、その相当部分につき原告らに対し分取歩合三官七民の部分林を設定する等により原告ら地元民に対し国有林経営上可能な限り便宜と利益を提供している。以上のとおりであるから、原告らの本件処分が無効であるとの主張は権利行使の名に値しないものであり信義則に反し許されないものである。
三 原告ら(被告の主張に対する答弁)
被告の主張(二)の事実は否認する。
同(三)の主張は争う。江戸時代の山林の自由な支配進退は当然近代法上も所有権となるべきものであり、官民有区分処分は江戸時代からの所有権を確認するものにすぎず、新たに近代法上の所有権なるものを創設する処分ではない。
同(四)のうち明治三三年六月三〇日までに原告らの祖先が下戻申請をしなかったことは認めるがその余の主張は争う。官民有区分に際し民有とされるべき土地が誤つて官有地に編入された場合には下戻法の施行後においても前掲明治二三年農商務省訓令第二三号によりなお民有地への引戻申請が許されていたものであり、かかる申請が却下されたときは行政裁判所に出訴し得たものである。また下戻法施行後に発せられた明治三三年四月一二日農商務省訓令第九三七号宮崎県山林特別処分例により下戻法所定の期間経過後も下戻の申請をなし得たものである。のみならず官民有区分処分に重大明白な瑕疵があり右処分が当然無効である場合は処分取消の行政訴訟の出訴期間にかかわりなく当該処分の無効を前提として民事訴訟を提起し得ることは当然である。
同(五)の主張は争う。本件処分は請求原因(三)記載のとおり無効である。また原告らおよびその祖先は被告に対し本件土地返還の陳情を続けていた。
第三証拠<省略>
理由
一 官民有区分処分の法的性格について
(一) 明治一二年ごろ地租改正に伴う官民有区分に際し本件土地が官有地に編入されたことは当事者間に争いがない。そこでまず右官有地に編入する処分(本件処分)がいかなる法的性格を具有するものであるかを判断することとする。
(二) 明治四年九月七日大蔵省達第四七号は田畑の自由な使用収益を認め、明治五年二月一五日太政官布告第五〇号は士農工商の四民に対し土地の所有と売買の自由を認めた。また明治四年一二月二七日太政官布告、明治五年二月二四日大蔵省達第二五号、同年七月四日大蔵省達第八三号、明治七年一一月七日太政官布告第一二〇号は私有地につきその所有者に地券を交付することとした。地租改正の前提となる近代的所有権制度はこのようにして次第に整備された。しかし、江戸時代においては、近代的所有権制度のもとにおけるような抽象的、絶対的、包括的、一物一権主義的な内容をもつ土地の支配権は確立されていなかつたのであり、一個の土地に領主の支配進退所持と農民のそれとが両立し、農民の支配進退所持には近代法上の所有権に比しうる強固なものから単なる事実的な支配進退まで強弱さまざまなものが存在していた。従つて江戸時代の支配進退者のうち誰を近代的所有権制度の下で所有者とするかは当然には定まらなかつた。そこで個々の土地の所有権の帰属を決定するためには、一定の基準にもとづく国の作業が必要であり、この作業によつてはじめて近代的所有権制度は最終的に確立するにいたる。
この作業が即ち地租改正に伴う官民有区分処分であつたと解すべきである。
(三) 明治二三年一〇月一〇日法律第一〇号訴願法制定請願規則廃止第一条によると「土地ノ官民有区分二関スル事件」が訴願をなしうる事項と定められており、また同年六月三〇日法律第四八号行政裁判法第一五条、同年一〇月一〇日法律第一〇六号行政庁ノ違法処分ヲ行政裁判所二出訴シ得ヘキ事件によると「土地ノ官民有区分ノ査定二関スル事件」が行政裁判所に出訴し得べき事項とされている。右各法律によると、本件処分のような官民有区分処分は、訴願をなし行政裁判所に出訴し得べき処分であることが明らかである。
また、明治三二年四月一八日法律第九九号国有土地森林原野下戻法は地租改正によつて官有に編入された土地森林等につき一定の要件を備える者に対し該土地、森林等またはその分収権を下戻すこととし、下戻しを受けた者はこれによつて所有権または分収権を取得し、かつ右土地等につき国の第三者に対する権利義務を承継すると定めている。
以上の各法律の条規は、いずれも本件処分のような地租改正に伴う官民有区分処分が土地所有権の帰属を創設的に決定する行政処分であることを当然の前提としていることが明らかである。
(四) 右(二)(三)に述べたとおり、地租改正に伴う官民有区分処分は土地所有権の帰属を決定する行政処分であると解すべきである。すなわち、地租改正に伴い土地を官有とする処分は、その瑕疵によつて当然無効であると解されない限り、当該土地を国の所有に属せしめる効果を有するとともに、反面当該土地につき従前支配進退所持していた者があつても、その者の所有権を否定する効果を有するものである。従つて仮りに原告らの祖先が本件土地の所有権を有していたとしても、本件処分がその瑕疵により当然無効であると解されない限り、本件処分により原告らの祖先の権利は消滅し、本件土地の所有権は国に属することとなつたものといわねばならない。
二 本件処分の瑕疵の有無について
(一) 本件土地がもと高則牧と称する里牧の一部であつたことは当事者間に争いがないところ、原告らは高則牧跡地は江戸時代におけるその使用収益の実績からすると本来民有地とされるべきであつたから本件土地を官有地とした本件処分には重大明白な瑕疵があり、右処分は当然無効である旨主張するので、まず官民有区分の基準が一般にいかなるものであつたかを検討する。
牛馬の牧場地について官民有区分の基準を直截に定めた法令は存在しないが、山林原野等につき官民有区分実施の際の区分の一般的基準を定めたものとして、明治八年六月二二日地租改正事務局達乙第三号、同年一二月二四日同達乙第一一号、同年七月八日同議定、明治九年一月二九日同議定があり、また官民有区分実施後に於て官民有区分の誤りを救済する基準を定めたものとして前掲国有土地森林原野下戻法および明治三五年五月二五日農商務省訓令第一二号がある。
これらによると、山林原野の官民有区分においては、検地帳その他の公の記録や書類のうたであきらかに民有地と認められるもののほか、記録のうえでは必ずしも民有地であるかどうかがあきらかでない土地であつても、土地に関する納税や土地利用の実態等により、村民が単に土地の利用税にあたるものを納めていたとか自然生の草木を採取していたにすぎないもののように土地に対する用益権能の存在が推認されるにすぎない土地についてはこれを民有とすべきではないが、地租の納付あるいは植林その他の手入れなどにより村民による排他的な支配の実態が存すると認められるものについてはこれを民有とすべきものとされていることがあきらかである。これを要するに、山林原野の官民有区分の基本的な基準は、山林原野に対する人民の支配進退の程度が近代法上の所有権にも比し得る程強固なものを民有とし、支配進退の程度が右の程度に至らず単に用益権的なものは官有としたものということができる。現実に右の基準に則した適切な官民有区分が行なわれたかどうかはともかくとして、右の基準自体は、前述したような山林原野に対する前近代的な支配関係を所有権を中心とした現行法における権利関係に一挙に移行させるにあたつてとるべき区分の基準としてはおおむね首肯できるところである。そして、江戸時代において本件土地に放馬がなされていたことは当事者間に争がなく、このことと検証(第一、二回)の結果により推薦される本件土地の当時の状況から考えると、本件土地の官民有区分にあたつては山林原野に関する前記基準によるべきであつたと解される。したがつて、本件処分に瑕疵があつたかどうかについても、本件土地を官有地に編入したことが右の基準に照らし適当であつたかどうかにより決すべきである。
(二) そこで原告らが本件土地を民有地とすべき理由として主張する事実の有無および右事実が前記基準に照らして民有地とすべき根拠になり得るか否かを順次判断することとする。
1 「里牧」 「百姓私牧」という名称について
高鍋藩においては、御牧と称する藩直営の牧場と里牧と称する民営の牧場とがあり、高則牧か里牧であつたことは当事者間に争いがない。そして、<証拠省略>によると、里牧は「百姓私牧」とも称されていたことが認められ、<証拠省略>によると里牧については「百姓牧」という名称も用いられたことが認められる。
しかし、右のように、「御牧」と「里牧」(「百姓私牧」「百姓牧」)とは経営の主体を異にしていたのであるから、その名称も単に経営主体の相違にのみ対応して用いられたものと理解しうる余地があり、したがつて、「里牧」「百姓私牧」「百姓牧」の名称の故に直ちに本件土地が民有であつたと断ずることはできない。
2 里牧運上について
高則牧につき里牧運上という租税が納められていたことは当事者間に争いがない。この事実から本件土地が民有地とされるべきであつたといえるかどうかについては、そもそも土地の使用に関連してどのような租税が納付されていたときに当該土地を民有地とすべきであつたかについて考察しなければならない。まず前掲明治八年一二月二四日地租改正事務局達乙第一一号は「啻ニ薪秣刈伐栽者従前株永山永下草銭冥加永等納来候習慣アルモノヲ概シテ民有ノ証トハ難見認二付如斯ノ類ハ原由慣行等篤ト取調経伺ノ上処分可致儀ト可想得事」と定め、前掲明治九年一月一九日地租改正事務局議定第三条は「従前秣永山永下草銭冥加永等ヲ納ムルモ会テ培養ノ労費ナク全ク自然生ノ草木ヲ採伐シ来タルノミナルモノハ其地盤ヲ所有セシモノニ非ス故二右等ハ官有地ト定ムヘシ」と規定している。右各規定からすると、そこに挙示された租税すなわち単なる用益税が納付されていたことは民有とすべき根拠とはしない趣旨であることがあきらかである。他方、前掲国有土地森林原野下戻法第二条は、「高受又ハ正租ヲ納メタル証アルモノ」はこれを民有とすべき根拠となしうることを定めている。右「高受又ハ正租」の意義は必ずしも明白ではないが、下戻法の解釈を示した前掲明治三五年五月二五日農商務省訓令第一二号に
五下戻法二於テ高受又ハ正租ト称スルハ左二列記シタルモノヲ云フ
一本高
二本途物成若クハ小物成ニシテ使用料其他ノ雑税ト認ムヘ
カラサルモノ
二其他幕府及各藩ノ制度ニ於テ正租ト認ムヘキモノ
と規定されていることおよび弁論の全趣旨により真正に成立したものと認められる乙第一、第二号証を参照すると次のように解される。「高受」とは「高請」のことであつて、一定の土地につき検地をなしてその収益を村高に算入することをいう。「正租」とは主たる地租であつて、江戸時代の本途物成即ち村高を課税物件とする主たる租税である。村高は原則として一村内に於ける田畑屋敷地の総収益を検地の手続により石高に換算した数のことであつて、本途物成の税額は村高に免すなわち租税率を乗じて算出されたものである。これに対して山野海河の収益税、各種の営業税のように村高を課税の対象としない租税は「小物成」と呼ばれていたのであり、狭義においては右の性格を有する税のうち定納とされ永久的性格を持つもののみが「小物成」と呼ばれていた。このように小物成を上納する土地は原則として高額地ではなく該土地の収益は村高に算入されないが、例外的に小物成を課すべき土地に高が附されその高が村高に加算されたことがあつた。このように田畑屋敷地以外の土地に高を附することは右土地を田畑に準ずるものとして扱うことを意味するのであり、その土地から上納した小物成は本途物成と同一の性質を帯びることになる(これを仮りに本途物成に準ずる小物成と言う。)。前掲農商務省訓令の小物成ニシテ使用料其他ノ雑税ト認ムヘカラサルモノ」は右の本途物成に準ずる小物成をいうのであり、それは下戻法にいう正租に該当するか、右以外の小物成は前掲地租改正事務局達乙第一一号、同議定の前示規定および下戻法の規定に照らして正租に該当せず民有とすべき証拠にはならない。以上のとおり解されるから、一定の土地に関して租税が上納されていた事実をもつて民有とすべき根拠とするには、当該租税が本途物成または前記本途物成に準ずる小物成であること、換言すると右土地の収益が領地により村高に組入れられていることが必要なのである。原告らは下戻法のいう正租とは地租一般をいうと解すべき旨主張するが、以上説示の理由で採用できない。
そこで里牧運上の租税としての性格を判断することとする。原告らは里牧運上は地租であり下戻法の規定する正租に該当する旨主張するが、里牧運上が本途物成若しくは前記の本地物成に準ずる小物成であることまたは地租であることを認めるに足りる確実な証拠はない。もつとも<証拠省略>には被告らの主張に符合する部分がある。すなわち、<証拠省略>は、里牧運上は里牧中の牛馬の頭数にかかわらず税額が一定であつて定納であることおよび里牧に関して課せられていた「里馬毛附銀」という租税が生産税と解されることを理由として、里牧運上は本途物成であり、しからずとするも定納である小物成であつて地租であるとし、また<証拠省略>は里牧運上は定納であるから地租であるとする。そして<証拠省略>によると里牧運上が定納であることおよび里牧に関して「里馬毛附銀」が上納されていたことが認められ、右約定に反する証拠はない。しかしながら、前記のとおり用益税である小物成のうちにも定納であるものが存在したのであるから、定納であることのみをもつて里牧運上を本途物成または地租と解する根拠とすることはできないし、<証拠省略>をもつても里馬毛附銀が生産税であるとは断定できない。のみならず、里牧地が田畑屋敷地でないことは当事者間に争いがないから里牧地につき課される里牧運上は原則として小物成であり、従つてこれを正租に該当する前示本途物成に準ずる小物成と認めるには本件土地につき高が附され右土地の収益が村高に算入されていた事実が不可欠であるが、右事実を認めるに足りる評拠は全くない。これらに加えて<証拠省略>はたやすく採用できず、他に原告ら主張事実を認めるに足りる証拠はない。結局里牧運上が上納されていた事実をもつて、民有とすべき根拠があるものということはできない。
3 支配進退について
本件土地が高則牧と称する放牧地の一部であつたことは当事者間に争いがなく、<証拠省略>によると、本件土地は山の東側斜面であつてその尾根付近に土塁様のものが存在することが認められる。また<証拠省略>によると、高鍋藩が設置した官牧の周囲には放馬が逃げないように土塁、木棚、木戸が設けられていたことが認められる。右各事実に<証拠省略>を総合すると、本件土地にある土塁は放牧地の設備として設けられたものであり、この他本件土地には堀、木棚、木戸等の設備が設けられていたことが認められ、右認定を左右するに足りる証拠はない。しかしながら、右事実のほかには本件土地の使用収益の状態を認めるに足りる確実な証拠はなく、前記事実のみでは江戸時代における本件土地の使用収益が単なる用益的な権利に基づくものではなく近代法上の所有権にも比肩しうる程強固な権利に基づくものであつたとは推議できないし、他にこれを認めるに足りる証拠はない。
もつとも原告らは、原告らの祖先は江戸時代に本件土地につき自由に開墾、樹木の伐採、植林をなして本件土地を自由に支配進退していた旨主張し、<証拠省略>には右主張に符合する部分もある。しかし、右各書証はいずれもその作成者の意見を記載したものであつて、その判断の根拠が明らかでなく、また右各証言はいずれも単なる伝聞・推測に基づくもので信憑性に乏しい。のみならず右各証拠によつても江戸時代における本件土地の使用収益がいかなる制度の下に、いかなる範囲、程度になされているものであるかを認めるに充分ではない。<証拠省略>は樹木を伐採していたことをもつて自由に支配進退していたことの根拠とするもののようであるが、前掲地租改正事務局達乙第一一号、同調定第三条によると単に右事実のみをもつて自由に支配進退していたことの証左となし得ないことは明らかである。以上の理由および<証拠省略>に照らしてみると原告らの主張に符合する前示各証拠はたやすく採用できず、他に右事実を認めるに足りる証拠はない。
4 内務卿の指示について
明治七年に宮崎県参事福山健偉が内務卿に対し高鍋藩が経営していた官牧を廃止して処分するにつき指示を仰いだ際里牧については指示を受けなかつたことは当事者間に争いがないが、里牧につき指示を受けなかつた理由を認めるに足りる確実な証拠はない以上、右争いのない事実をもつて本件土地を民有地とすべき根拠とすることはできない。
6 行政裁判所の判決について
高則、胡桃ケ野両部落民が提起した行政訴訟につき、明治四三年五月六日行政裁判所が「農商務大臣は高則牧跡地の二分の一を高則、胡桃ケ野の部落民に下戻すべし」との判決を宣言したことは当事者間に争いがない。<証拠省略>によると、右判決が高則牧跡地を民有地とする理由は、右土地は民牧且人民の経営する牧場であることは当事者間に争いがないから反証のない限り人民の所有地であるということにつきるのであつて、この点につき右の判決は他になんらの理由も示していないことが認められる。しかしながら、前記3に判示したとおり右の理由のみでは本件土地を民有地とすることはできないし、右判決は右の理由以外にいかなる証拠によりいかなる事実を認定しこれにいかなる基準を適用して民有地と判断したのかを全く明らかにしていないから、右判決の存在は当裁判所の前示の各判断を左右するものではない。また<証拠省略>によると、明治三一年七月九日行政裁判所が宮崎県日向国南那珂郡(当時)所在の同里牧跡地につき同様の理由で民有地に引直すべしとの判決を宣告したことが認められるが、右判決も前記と同様の理由により当裁判所の判断を左右するものではない。
(三) 以上のとおり本件土地を含む高則牧跡地は本来民有地であつて、民有地に編入すべきであつたと認めることはできないから、本件土地を官有地に編入した本件処分に重大明白な瑕疵があるとすることはできず、本件処分を以て当然無効であると解することはできない。
三 無効の主張の適否について
そればかりでなく、仮りに本件処分になんらかの瑕疵が存在したとしても、左の理由により、原告らが本件処分の無効を主張することは許されないと解すべきである。
(一) 本件土地について本件処分がなされたのが明治一二年ごろであることは当事者間に争いがなく、それ以来本訴を提起した昭和三六年まで約八〇年の長きにわたり原告らまたは原告らの祖先(目録(三)記載の者全員をいう。)が本件処分の効力を争いまたは本件土地の所有権を主張して被告に対し訴訟の提起をしていないことは弁護の全趣旨によつて明らかである。
行政裁判法第一五条、第二二条および行政庁ノ違法処分ヲ行政裁判所ニ出訴シ得ヘキ事件(明治二三年法律第一〇六号)によると、民有とされるべき土地が誤つて官有とされた場合に官民有区分処分自体の効力を争い行政訴訟を提起することは、処分書が交付されまたは処分が告知された日から六〇日以内に限り許されるものとされていた。本件処分のように行政裁判法施行前の処分については、明文の規定はないが同法施行の日である明治二三年一〇月一日から六〇日以内に出訴すれば足りると解されるところ、原告らの祖先または原告らが右期限までに出訴しなかつたこと前示のとおりであるから、本件処分自体の効力を争い行政訴訟を提起することは右期限の経過とともに不可能となつた。また明治一五年一二月一二日太政官布告第五八号請願規則、明治一一年七月二五日太政官達第三二号府県職制事務章程ヲ廃シ府県官制制定、明治二三年四月一五日農商務省訓令第二三号官有森林原野引戻ノ件、明治三〇年八月六日農商務省令第一三号官有森林原野引戻申請ノ件によると官民有区分処分に不服のある者には官有地とされた土地につき府県知事(後には農商務大臣)に対して下戻の申請権が与えられており、該申請が拒絶された場合には拒絶処分に対して行政訴訟を提起しえたが、前掲下戻法第一条、第七条により右下戻申請は明治三三年六月三〇日までに限られていた。そして原告らまたは原告らの祖先が右期限までに下戻申請をしなかつたことは当事者間に争いがないから、本件処分について下戻申請の方法によつてその効力を争うことも右期限の経過によりなし得なくなつた。原告らは右下戻法所定の期間経過後も前記訓令等により下戻申請ができる旨主張するが、右訓令等による下戻申請ができるのは前掲下戻法第七条によりすべて同法所定の期間内に限られたと解される。また原告らは右下戻法所定期間経過後も明治三三年四月一二日農商務省訓令第九三七号宮崎県山林特別処分例により下戻申請をなし得たとも主張するが、同訓令第一条によると同訓令による下渡をなしうる土地は、「地租改正処分に依り民有二査定シタル土地森林原野ニシテ明治十四年ヨリ同二十三年ニ至ル官林境界調査ニ依リ出願又ハ命令ヲ以ツテ官林二編入シ現二国有二属スルモノ」に限定されるから本件土地のように当初から官有と区分された土地に適用されないことは明らかであり、原告らの主張はいずれも採用できない。結局、本件処分の効力を行政争訟によつて争うことは明治三三年六月三〇日の経過によりなし得ないこととなつたが、右の時から本訴の提起された昭和三六年まででも既に六〇年以上の時日が経過している。
(二) 行政裁判所が明治四三年五月六日「農商務大臣は高則牧跡地の二分の一を高則、胡桃ケ野両部落民に対し下戻すべし」との判決を宣告し、その後右判決に従い高則牧跡地が分割されて右土地のうち本件土地を除く部分が右両部落民の共有となり、本件土地が官有とされたことは当事者間に争いがない。そして近接の部落民である原告らの祖先または原告らは、その当時この事実を知つたと推認されるから、これにより本件土地につき同人らも所有権を有するとの認識を持つに至つたであろうことがたやすく推認できる。しかるに<証拠省略>によると右判決以後に原告らの祖先を含む揚原部落民のうちには本件土地につき被告から部分林の設定を受けた者があり、選定者の中にも現にその部分林の権利を有している者があることが認められ、右認定に反する証拠はない。のみならず検証(第二回)の結果および本件弁論の全趣旨によれば、被告は長年月にわたり本件土地に国有林を造営しており、原告らは右事実を知悉していることがあきらかである。
(三) 右(一)(二)の各事実によれば、原告らの祖先および原告らは、本訴の提起に至るまで久しきにわたつて本件処分の効力を争うことをせず、このため被告において本件処分の効力が争われることはないものと信頼しても無理からぬ状況にあつたということができるから、本訴の提起がその内容および性質からみてかなりの準備を要するものであることを斟酌しても、原告らが今に至つて本件処分の無効を主張することは信義に反しもはや許されないと解さざるを得ない。もつとも<証拠省略>によると原告らまたはその祖先が昭和一七年から数回にわたり被告に対して本件土地に関し陳情をなしたことが認められるが、右事実をもつてしても前記の信義則違反の判断を妨げることはできない。
四 結論
以上のとおりであるから、いずれにしても、本件処分が無効であることを前提とする原告らの本訴請求はその余の争点につき判断するまでもなく、すべて理由がない。よつてこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条、第九三条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判官 奏不二雄 橘勝治 細川清)
目録(一)
宮崎県串間市に所在する国有林第八五林班所属の山林その他一切の土地